こんにちは、つばきです。
毎日約1冊のペースで本を読んでいる私が、今読み進めているのが「魔女の宅急便」。
そう、あのスタジオジブリでアニメ化された「魔女の宅急便」の原作です。
魔女の宅急便シリーズは5冊あり、さらに続編もあります。
現在、私は「魔女の宅急便 その4 キキの恋」まで読み終わりました。
ようやくキキとトンボさんが自分の気持ちを伝えあったところです。
「魔女の宅急便」を読んでいると、アナログな世界でもう一度暮らしたくなるのです。
著者 角野栄子さんについて
作者の角野栄子さんは1935年生まれの童話作家、絵本作家です。
「アッチ・コッチ・ソッチのちいさなおばけシリーズ(ポプラ社)」の作者でもあります。
このおばけシリーズを小学生の時に読んだ人も多いのでは?
角野さんは「路傍の石文学賞」、「野間児童文芸賞」、「小学館文芸賞」などさまざまな賞を受賞。
近年では、2018年国際アンデルセン賞を受賞したことでも話題になりました。
今なお世界中で愛されている児童文学作品の著者です。
体を動かす、心を動かすことを教えてくれる
私がこの物語のどこに惹かれるかというと、「生きている」と感じられるような暮らしの営みと、人とのふれあいです。
例えば、連絡手段は電話と手紙、人からの伝言です。
キキがいつも持っているのは、ほうきとラジオ、黒い服、靴、お出かけ用のポシェットだけ。
海や山へ出掛け、雨や風、花の匂い、お日様の匂い、足元の触感を楽しみます。
お客さんや友達とのやりとりを通して、喜びや悲しみ、妬み、嫉妬、優しさ、気付きや感動があり、感情がコロコロと変わります。
そう、少し昔の人たちが当たり前に生活していた様子に心惹かれるのです。
映画「魔女の宅急便」でもアナログに惹かれる
原作を読んだことない人でも、スタジオジブリの映画版は見たことがあるという人が大勢いると思います。
私は映画「魔女の宅急便」が人生で初めて見た映画でした。
映画館ではなく、映画館のない田舎の子供たちのために、上映から少し遅れて地域の会館で開かれた上映会に親子で出かけました。
映画の世界に心奪われ、家に帰ってから何日もほうきにまたがり、ジャンプしたり斜面を走り下りたりして、いつか私も空を飛べるんじゃないかと練習したものです。
子供のころはただ単にストーリーが好きなだけでした。
でも、自分の家族を持ち、自分の家を持った今、ジブリ作品を見ると私は暮らしの営みにばかり目を惹かれるのです。
例えば、キキが満月の夜に旅立つシーン。
キキはラジオで晴れの満月だと聞くと、急いで支度をして旅立つ準備をします。
私が釘付けになるのは、キキの荷造りのシーン。
旅立つ時のバッグは一つだけ、最低限のものだけ持っていきます。
それでも、甘いものは忘れないのが「自分のときめき」を大切にしていて好きなんです。
次に、オソノさんに「使ってもいいよ」と言われた部屋を掃除するシーン。
掃除機ではなく(当たり前か)、自分のほうき、それから翌日タワシでごしごしと床を磨くシーンを見ていると、私も掃除がしたくなってうずうずしてきます。
必要最低限の荷物だけを持ってきたキキがジジとコリコの町のお店で買い物をするシーンも大好きです。
むき出しのオレンジ、地図、茶色い紙袋。
プラスチック製品のない、温かみのある包装が大好きです。
そうそう、公園でサンドイッチを食べるシーンでは、パンはハンカチにくるまれているだけでした。
現代だったら、使い捨て容器かプラスチック包装に包まれていて、映画ほどおいしそうには見えないでしょうね。
もちろん映画のストーリーも大好きです。
コリコの町で出会った人たちとの人間模様から心を成長させていくキキに自分を重ねることもあります。
ただ、この映画のように人と人との触れ合いを私はどれだけしているのというと、現在では全くないと感じるのです。
挨拶を交わす仲から、お互いのことを少しずつ知って、少しずつ打ち解けてというプロセスを最近踏んでいないと気づきます。
一番心に残っている「杖の散歩」の仕事
魔女の宅急便シリーズ、まだ4冊しか読んでいませんが、私の心に残っている話があります。
それは、「魔女の宅急便 その2キキと新しい魔法」に収録されているお話。
入院しているおじいさんの杖をおじいさんの自宅に届ける仕事のお話です。
おじいさんは入院しているので自由に外を歩くことができません。
そこで魔女のキキに仕事を依頼し、杖を自宅に置いてくるように頼みます。
でもそれには条件がありました。
おじいさんがいつも歩いている散歩コースを杖と一緒に歩いてほしい、というものでした。
犬の散歩ならぬ杖の散歩です。
そしておじいさんから立ち寄る場所や通るルートのメモをもらい、キキと杖はそのルートの通りに歩いて行きます。
途中いつも立ち寄る公園でぼーっとしたり、世間話をするお店の人などと出会い話を弾ませる、という話です。
この話を読んだ時に、私は自然と涙が出ました。
こんなに自分の近くにあるものに愛を持って接していただろうか、空が青いことに感動していただろうか、毎日言葉を交わす近所の人はいるだろうか、と自分の普段の生活を振り返り、涙が溢れてきたのです。
私たちは時間に追われ、仕事に追われ、支払いに追われ、メディアの過剰な報道に洗脳され、どんどんモノを買う生活を送っています。
でもそれが本当に生きる目的だったのでしょうか?
モノを買うために生きているんじゃないですよね。
本当は愛が何かを感じ、何かに愛を与えるために生を受けたのではないでしょうか?
空が青いこと、海が広いこと、小鳥が鳴いていること、雨が降ること、朝日が昇ったこと、月明かりが優しいこと。
これらを感じたのは、いったいいつだったでしょう。
季節に合わせた洋服があること、雨風をしのぐ家があること、季節のおいしい野菜が食べられること、甘いものが食べられること。
当たり前と思っていたものは、当たり前じゃない世界もあります。
公園で子供を追いかけること、自転車でどこまでも行けること、本を読むこと、ピアノを弾くこと。
健康も当たり前ではないし、体を動かすことだって制限されている場合もあります。
目の前を子供のおしりが横切っていくこと、くしゃみを顔面で受け止めること、スカンクのようにおならを発射されること。
子育てとは、なんて愉快で平和な世界でしょう。
私が毎日していることは奇蹟だし、身の回りで起こることも奇蹟だということ。
当たり前に感謝すること。
そのことを、少し昔の物語は教えてくれます。
頭と体を動かさないとどんどんバカになる
最近ではなんでも機械やロボットがやってくれるようになりました。
昔は手洗いしていた洗濯は、今は洗濯機が自動でやってくれます。
掃除もロボットが外出中に終わらせてくれています。
わからないことはグーグルさんやAIに聞けばすぐ教えてくれます。
人と会話しているよりも、画面上で会話をすることのほうが多いです。
このまま機械やロボットに頼りきった生活をしていると、私たちは何もできなくなります。
私は、掃除機を手放してほうきを手にした時、掃除の楽しさを知りました。
洗濯機が壊れて1週間洗濯を手洗いした時、固形せっけんだけで汚れがみるみる落ちて驚きました。
炊飯器を捨てて鍋でご飯を炊いた時、お米の炊き上がる匂いと甘さをかみしめました。
自分の頭と体を動かして家を整えるのがこんなにも楽しいのに、それを機械に横取りされているなんてもったいないと思いました。
こうして私が昔の暮らしや自然に寄り添った暮らし、田舎の暮らしに惹かれていくのに対し、夫は最新や見栄を追ってきました。
私がものを捨てる一方で、夫はどんどんものを買い足していきました。
まさに陰と陽。
私がただ単に好きでやっていることなので、夫に強制はしません。
頭と体を動かさないと、当たり前が当たり前でないこと、今もっているものでも十分幸せだということに気付かず、周りに流されてもっともっとと欲しがってしまう。
近くにいる大切な人よりも、SNS上の知り合いや不特定多数の目を気にする。
そういった意味で、バカになると私は思っています。
夜が暗くなけりゃ、朝日のまぶしさは感じない。
人と会話しなきゃ、言葉に揺り動かされることはわからない。
人と手を振れ合わなきゃ、手当ての意味がわからない。
ほんの少し昔の暮らしを心がけることで、なんとも言えない感情が湧きおこり、「生きている」ってこういうことかと思う時があります。
私は私の命を精一杯生きたい。
少し前の古典や名作は、丁寧な暮らしの教科書です。